LOTUS 7

sr−2
ケータハム
セブンは、「ロータス・マーク6」の流れを汲むチューブラーフレームにアルミ外板を張ったセミモノコック構造をとったオープンホイールのクラブマンレーサーで、1957年秋のロンドンショーにて、斬新なFRPモノコックシャーシを持つ「ロータス・エリート」と同時に発表された。
スタビライザーとアッパーアームを兼用したダブルウィッシュボーンによるフロントサスペンションと、A形のアームでアクスルハウジング(ホーシング)の前後・左右の位置決めをする、センターAアーム式のリアリジッドサスペンションが特徴で、これにより部品点数の削減によるコストダウンと軽量化を図っていた。
当時のタイヤの性能では、これでも充分な強度があり、必要以上の強度を持たせることによる重量増加を嫌うコーリン・チャップマン(Anthony Colin Bruce Chapman, 1928年 - 1982年)の思想がうかがえる。
ベーシックモデルは「ロータス・セブン」と呼ばれ、フォード100E、116Eや、BMC・Aタイプなどのエンジンが積まれていた。
さらにチューンアップされたエンジンを積んだ高性能バージョンも用意され、これを「スーパーセブン」という。ロータスセブンはシリーズ1 - シリーズ4までのモデルチェンジが行われ、いくつかのバリエーションの完成品、またはキットフォームで販売された。シリーズ4では、当時、最新のレーシングカー製作技術を取り入れたスペースフレーム+FRPボディーが採用され、ロータス社内のモデルナンバーも、当初の7から60に変更された。
当時のイギリスでは自動車を購入する際の物品税が非常に高かったが、キットの状態で購入して自分で組み立てれば安価に入手することができた。
また、エンジンやトランスミッションなどの高価な部品を含まない廉価版のキットを購入し、スクラップになったドナー車から好みのエンジンを流用して組み立てることで、さらに購入価格を抑えることもできた。多くの部品が大衆車からの流用で、構造が簡単で改造も容易なキットカーならではのエピソードである。経済力の弱い若者がモータースポーツを始めるには最適なモデルであった。
会社としての体力がまだおぼつかない初期のロータス社にとっても、大がかりな生産設備を必要としないセブンは、生産をスタートさせるまでのハードルが低かったが、それゆえに、手作業による生産工程がほとんどを占めるため、大量生産を行うには生産性も悪かった。英国でのキットカーに対する優遇税制の変更と、シリーズ4の主たる販売先と目論んでいた米国での安全基準(ばかげた5マイル騒動)の見直しによる輸出の断念などが重なり、ロータス社はセブンの生産を終了し、その座を後継であり、車らしく、より高級そうで高利益が得られるロータス・ヨーロッパが引き継ぐこととなった。
ロータス社はセブンの生産を終了した際、よりステップアップするための資金源として、ロータスの代理店であったケーターハム(ケイターハム)社へ1973年にセブン・シリーズ4の製造販売権と、在庫部品、製造治具などの生産設備を売却した。