シャパラルの今、昔!!

シャパラルはテキサスの石油王で自動車レーサーで技術者でもあるジム・ホールによって設立された。1960年代に実験的で強力なレースカーを開発し、アメリカのUSロードレーシング選手権(USRRC)やカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am)、ヨーロッパのスポーツカー世界選手権で活躍。1970年代末からCARTに挑戦し、伝統のインディ500も制覇した。シャパラルの開発の歴史は1960年代から1970年代にかけてのレースカーにおける空力やタイヤの鍵となる変化だった。ジム・ホールは技術者としての訓練を受け、従来の概念に囚われず技術的課題に対して独自の考察に基づく斬新な解決法を示した。彼はシボレーやファイヤストンの技術者チームとも交流があり、空力の変更や科学的な考察を行なった。データ収集装置はGMの研究グループが開発した。ホールはポール・ヘンリーのインタビューでこれらについて語っている。なお、かつては「チャパラル」という日本語表記もあったが、現在は「シャパラル」が定着している。シャパラルという社名はジム・ホールと共同設立者であるハップ・シャープの姓を組み合わせたところ、「Chaparral」というスペイン語の単語に響きが似ていたために付けられた。「Chaparral」はアメリカ南西部に生息するカッコウ科の鳥(日本語名ミチバシリ)であり、2本足で荒野を疾走することからアメリカでは「ロードランナー」とも呼ばれる。この社名と白いボディカラーから、シャパラルのマシンは「白い怪鳥」と形容された。

創設者ジム・ホールはヨーロッパ製のスポーツカーを購入してレース活動をしていたが、スペアパーツ不足などへの不満からアメリカ製V8エンジンを搭載するオリジナルマシンの製作に興味を持った。手始めに元スカラブ[2]技術者ディック・トラウトマンとトム・バーンズのスポンサーとなり、1961年に2人の設計したシャパラル・1がデビューした。ホールはアマチュアレーサーのハップ・シャープと親しくなり、彼の地元テキサス州ミッドランドに移住する。知人らと郊外のラトルスネーク・サーキット建設計画に出資したが、死亡事故で所有権が宙に浮いたため、私有のテストコースとして買収。1962年、隣接地にファクトリーを構え、シャープと共同でシャパラル・カーズを設立した。カリフォルニア工科大学出身のエンジニアでもあるホールは、オリジナルマシンの設計に航空工学などの他分野から創造的なアイデアを持ち込んだ。また、ゼネラル・モータース(GM)の技術研究グループと密接な関係を持ち、実験的なテクノロジーを供与されたといわれる。今日に至るまでGMとの関係が公式に発表されたことはないが、シャパラルは実戦での開発・テストを担うセミワークス的な存在だったと見られている。