360⇒EV!!


HONDA久しぶりの軽自動車today

そして、ミッドシップ、オープンスポーツのBAET!!

新生NのEVコンセプト・モデル



HONDAが軽自動車の生産を10年間も中断した理由…


『ユーザーユニオン事件』

1969年以降、ラルフ・ネーダーが主導しアメリカで社会問題になっていた「欠陥車問題」に影響され、日本でも同様に欠陥車糾弾の動きが生じた。この種の動きを見せた団体に「日本自動車ユーザーユニオン」があり、当時のベストセラーカーであった「N360」に操縦安定性の面で重大な欠陥があると指摘、未必の故意による殺人罪本田宗一郎東京地方検察庁に告訴した。
この事件に関して1973年の国会審議で日本共産党が質問中に示した数字として、1968年から1970年の3年間で、被害者362名(うち、死亡56名、重傷106名、軽傷137名、物損14件)というものがある[2]。
これによるイメージダウンもあって、発売以来3年間日本国内販売首位を誇った「N360」の人気は下がり、1971年には後継モデルの「ライフ」が発売されたこともあって、1972年に販売を終えた。
捜査の結果、本田宗一郎は不起訴となった。またホンダは法外な示談金を要求したユーザーユニオンを恐喝で告訴し、ユーザーユニオンの代表者2名が恐喝の疑いで東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された。判決が確定したのは1987年1月のことであり、十数年の年月を要した。
ホンダはNシリーズの派生型である「Z」や、モデルチェンジ型である「ライフ」等で、軽乗用車業界における新たな展開を求めたが、「N360」で失ったものを取り戻すまでには至らず、1974年には商用車のみを残して軽乗用車の分野から一時撤退することになる。
N360」の開発に携わった中村良夫は、のちに、ユーザーユニオンの指摘した「ヨー特性にロール特性がからんだ不安定さ」を「N360」がもっていたことを否定していないが、技術鑑定人として委嘱された亘理厚(わたり・あつし 東京大学生産技術研究所教授。当時の日本における自動車技術の権威の一人であった)は、「当時の道路運送車両法が軽自動車の速度について60km/h程度を想定しており、100km/hを軽くオーバーするNのような自動車の出現を予知し、盛り込めていなかったことに問題がある」という主旨の指摘をおこなっている。